阿波局 (北条時政の娘) (Awa no tsubone (a daughter of Tokimasa HOJO))
阿波局(あわのつぼね、生年未詳 - 嘉禄3年11月4日 (旧暦)(1227年12月13日))は、鎌倉時代初期の武家女性。
初代執権北条時政の娘。
本名は不明。
兄弟に源頼朝正室・北条政子、北条義時らがいる。
義兄・頼朝の異母弟である阿野全成に嫁ぎ、4男・阿野時元を儲ける。
その後、頼朝の次男・源実朝の乳母となる。
頼朝が死去し、嫡男・源頼家が跡を継いで数ヶ月後の正治元年(1199年)10月25日、御家人の一人である結城朝光が侍所の詰め所で在りし日の頼朝の思い出を語り、次のように述べる。
「『忠臣、二君に仕えず』というが、自分も出家してそうするべきだったと悔やまれる。」
「なにやら今の世は薄氷を踏むような思いだ。」
その翌々日の27日、阿波局が朝光に「梶原景時が、先日の発言が謀反心のある証拠だとして讒訴し、あなたはすでに殺される事になっている」と告げた。
驚いた朝光が御家人たちに呼びかけ、景時を糾弾する御家人66名の連判状を作成し、頼家に提出。
11月13日、景時は鎌倉を追放された。
翌年の正月に都へ向かう道中で一族もろとも滅亡した(梶原景時の変)。
景時滅亡の3年後、北条氏と2代将軍源頼家との争いが激化した。
建仁3年(1203年)5月19日に北条氏側と見られた夫・全成が頼家の手の者により謀反人として捕らえられて殺害された。
頼家は阿波局も逮捕しようとしたが、政子が引き渡しを拒否する。
その後頼家は北条氏が中心となって鎌倉を追放され、幽閉されたのち殺害された。
阿波局はその後も実朝に仕えた。
牧氏事件においては「どうも様子がおかしく、時政の屋敷においていたのでは実朝の身に変事が起こりそうだ」と政子に伝え、先手を打って実朝を避難させ、牧の方の謀反を義時に密告したという。
しかし実朝死後、謀反の疑いで処罰された息子・時元を弁護したなどの記録はなく、その後の動向は明らかではない。
嘉禄3年に亡くなったときには叔母に当たるという理由で北条泰時が30日の喪に服している。